「島流し」とは、どんな刑罰だったのでしょうか。なぜ行き先が「島」だったのか、そして流された人はどのように暮らしていたのか。島に特化した情報発信を行う「はなれじま広報部」が流刑(るけい)と離島の関係を紐解きます。
島流しって具体的にどんなこと?
「島流し」とは、罪人や政治的に排除された人物を離島へ送り、その地での居住を強制する刑罰です。「流罪(るざい)」や「遠島(えんとう)」とも呼ばれ、流刑地に送ることを「配流(はいる)」といいます。
律令制が整った奈良時代にはすでに制度化されており、罪の重さに応じて「近流」「中流」「遠流」の三段階。もっとも重い遠流の配流先には、佐渡・隠岐・土佐などがあてられていました。そして、江戸時代には配流先がさらに細かく定められ、制度は明治41年(1908年)まで続きます。
島流しの対象は刑事犯だけではありません。政争に敗れた貴族や皇族、幕府を批判した宗教者など、「死刑にすると反発が大きい」人物が送られるケースも多くありました。
島が選ばれた理由と、流人の暮らし
島が流刑地に選ばれた最大の理由は、海に囲まれているという環境にあります。陸続きの土地と違い、船がなければ脱出できません。牢獄を築かずとも逃亡を防げるため、管理の手間やコストが抑えられました。同時に、それまでの社会や人間関係から切り離す「断絶」自体も、強い罰として機能していました。
一方で、流人(るにん)の暮らしは一様ではありません。厳しい環境に置かれる者もいれば、地元の支援を受けながら生活する者もいました。もう一つ知っておきたいのが、流人が島に文化をもたらした点です。島外から来た人を通して宗教や芸能、言葉などが持ち込まれ、島の中に残っていきました。
流人は単なる「送り込まれた存在」ではなく、島に外の文化を伝える役割も担っていたのです。
流刑地として知られる島
●佐渡島(新潟県)

日本海側最大の離島。順徳上皇・日蓮・世阿弥など歴史に名を残す人物が数多く送られました。コメが採れるほど食糧事情に恵まれ、のちに金山が発見されると「流刑の島」から「黄金の島」へと姿を変えています。
●八丈島(東京都)

江戸から南へ約290km。安土桃山時代の武将・宇喜多秀家を皮切りに、265年間でおよそ1,900人が流されました。当時の航海技術では容易に行き来できる距離ではなく、「戻れない」という絶望的な遠さが、最重度の流刑地たる理由でした。
●隠岐諸島(島根県)

724年に遠流の地として定められた隠岐には、後鳥羽上皇(19年間)と後醍醐天皇(約1年で脱出)という二人の天皇が送られています。島では今も後鳥羽上皇を「ごとばんさん」と呼び、隠岐神社に祀っています。
島に残る「流人の痕跡」
隠岐の海士町には後鳥羽上皇を祀る隠岐神社と御火葬塚が残り、佐渡には日蓮ゆかりの三本山をはじめ島内各地に寺院が点在します。牛突きや能といった文化の背景にも、流人の存在があります。
その影響は目に見えるものだけではありません。隠岐ではトイレを「お箱所」と呼ぶ公家言葉が、今も一部で使われているといいます。外から来た人が持ち込んだ言葉や文化が、長い時間をかけて島に残ってきたのです。
はなれじま広報部では、後鳥羽上皇が19年を過ごした隠岐・海士町の記事や、佐渡島で活動する映像制作者に「もたらす人」の生き方を聞いた記事、冬の佐渡を漢字で切り取った記事などもお届けしています。






