「戻る」のではなく「変わる」。玄界島が教えてくれた復興のかたち

玄界島「戻る」のではなく「変わる」

猫が大好き、はなれじま広報部の「部員B」です。
2025年11月、私は博多埠頭から船に乗りました。


目的地は玄界島。福岡市西区に属する、玄界灘に浮かぶ小さな漁師の島です。博多港(博多ふ頭)からの所要時間は35分ほど。私には、この島を訪れたかった理由が、ずっと前からありました。

猫島だからって?いいえ、違います。猫との触れ合いは前日、相島で思う存分済ませていますので今回は我慢我慢。できたはず…。

遡ること2005年3月、玄界島を震度6弱の激しい揺れが襲いました。ブルーシートが集落の半分ほどに掛けられた光景が、今も目に焼き付いています。あの地震から20年。今の玄界島はどんな姿をしているのか、自分の目で確かめたかったのです。

大阪で暮らす私にとって、2025年は阪神淡路大震災から30年という節目の年でもありました。あの震災でさえ復興に10年、20年という年月を要したことを思うと、離島での復興がどれほど大変なものだったのか、自然と想像してしまいます。

そんなことを考えているうちに、玄界島はもう目の前です。

玄界島ってどんなところ?
福岡市西区に属し、2020年時点での人口は約350人。島民のほとんどが沿岸漁業に従事する。2005年の福岡県西方沖地震(M7.0)で家屋の9割以上が被災する壊滅的被害を受けたが、福岡市と島民の協働により短期間での復興を成し遂げた。

未曾有の災害。そして、「つくり直す」復興


まず、20年前に何が起きたのかを整理しておきたいと思います。

2005年(平成17年)3月20日午前10時53分、玄界灘でマグニチュード7.0の地震が発生しました。震源に最も近かった玄界島では、全壊107棟・半壊46棟・一部損壊61棟と、家屋被害の合計が214棟にものぼり、実に9割以上の建物が何らかの被害を受けました。島には地震計がなかったため正確な震度は記録されていませんが、被害状況から、観測された最大震度6弱をさらに上回る揺れが直撃した可能性があるとされています。

急傾斜地での斜面崩壊も多発し、島民のほぼ全員にあたる約700人が、当日中に島外に避難しました。幸いにも死者は出ませんでしたが、住み慣れた家と集落を失った島民にとって、あまりにも過酷な現実です。

翌日、福岡市は復旧・復興本部を設置し、島民との協働で復興の方針を練っていきます。選ばれたのは、安全な場所に新たな宅地を造成して集団移転する方法でした。単に「元に戻す」のではなく、「つくり直す」復興です。

荒天時には出航をすることができません。資材や重機、生活物資の多くも本土からの搬入に頼らざるを得ません。そうした条件下で工事は進められ、2008年3月、戸建て・公営住宅のすべてが完工しました。

地震からわずか3年で、帰島を希望したすべての島民が島に戻ることができたのです。

2025年、あの日から20年の玄界島を歩く

いよいよ玄界島に到着です。下船してすぐ、目の前に広がるのは、斜面に何層にも整然と並ぶ住宅の数々。震災の爪痕は今のところ、どこにも見当たりません。ここが離島であるとは思えないほど、私にとってはインパクトのある風景でした。

すぐ手前に目をやると、可愛らしいたたずまいをしたカフェがありました。「にゃるずcoffee」さんです。


商品の受渡口の横には猫エサの入ったガチャガチャがあり、観光で来た人もあげることができるようです。


その奥には公民館や集会所、購買店などが並ぶエリアとなります。住宅だけでなく、こういった公共施設なども復興時に新設されたのだそう。


20年ものあいだ潮風にさらされてきたとは思えないほど、建物はどれも綺麗な状態を保っています。エレベーターと連絡橋でつながり、高低差のある斜面を行き来できる集合住宅なんかもありました。


震災前、この斜面には石段が入り組み、家々が密集していたといいます。人がすれ違うのもやっとの細い道。斜面に張り付くように建つ住宅。そうしたかつての姿と照らし合わせると、「元に戻す」復興ではないことは一目で伝わってきます。

その横の階段を上ると、復興記念公園にたどり着きます。公園には桜が植えられており、春にはさぞ、美しい風景にやわらかな彩りを添えていることでしょう。


このあたりも、かつては人の暮らしがあった場所なのかもしれない。柵に両手をかけ、島の景色を静かに見渡します。


左側にみえるのは志賀島と能古島。高台から見る島内、その先の緑、そして青空。20年前の出来事を重ね、しばらく足が止まりました。


そこからまた階段を上ると、まるでニュータウンのような家並みが広がります。斜面に沿って道路が通り、家が並ぶ。そしてまた階段を上ると道路、家、と続きます。

震災前、この高台は宅地として利用されていた場所ではなく、山林や未利用地が広がっていたといいます。人々の暮らしは港周辺から中腹にかけて集中しており、いま住宅が整然と並ぶこの場所は、震災後に新たに造成されたものなのです。

これが離島で、それも3年で成し遂げられているという事実に、改めて驚かされます。


玄界島では、下から高台の一番上まで階段が縦に通っています。この景色を目にしながら階段を下りていくのは、なかなか気持ちのよいものでした。

綺麗なのは高台にある住宅だけではありません。公共施設、集合住宅、小学校、幼稚園、すべてが綺麗なのです。


海が見えない場所を歩いていると、ここが離島だということをすっかり忘れてしまうくらいです。本土の住宅地を散歩しているような、不思議な感覚でした。


そして、こうしたまちの再生を語るうえで欠かせないのが、小学校の存在です。玄界島の小学校は単なる教育施設ではなく、復興の核となる存在として位置づけられていました。


復興にあたり、小学校の再整備が決まっていたことは大きな意味を持っていました。子育てができる環境が維持されるかどうかは、帰島を判断する際の重要な基準となります。子育て世帯が島外に定住すれば、若い世代は減っていく。小学校は、そうした意味で地域の存続に関わる存在でもありました。

校門からの眺め

子どもたちは毎日、この景色とともに登下校をし、学びを重ねています。この眺めが当たり前だった日々の尊さに気づくのは、きっとこの島を離れてからなのでしょう。

玄界島の事例からわかったこと

玄界島を歩いて実感したのは、復興とは決して「自然に戻っていくもの」ではないということです。離島という制約の中、玄界島はわずか3年で復興を実現しました。資材や人を船で運びながら進めたその労力は、想像を超えるものです。

復興後も、課題がなかったわけではありません。震災前に約700人いた人口は帰島後に約570人まで減少しました。若い世代の漁業継承者が減り、島を離れる人も増えました。それでも島に戻ることを選んだ人たちが、「自分たちの島」を守りながら今日も暮らしています。

阪神淡路大震災から30年、福岡県西方沖地震から20年。どちらも節目の年に、私はこの島に来ることができました。ふたつの震災が問いかけてくるものは同じです。人は失ったものをどこまで取り戻せるのか。玄界島はひとつの答えを見せてくれていました。

最後に
猫ちゃん可愛かったです。


企画・執筆:部員B
編集:ハテシマサツキ

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